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Chapter.3 最速の条件
(ストリートの性能を熟成させることがレースに参戦する明確な目標となっていた)

97.2.11 筑波サーキット JCCA Fクラス

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97.5.25 筑波サーキット オーシャンカップ

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 果たしてどれほど速いのか、筑波サーキットが舞台となるレースにおいて如何なる結果を残せるのか関係者の期待は必然と高まった。しかしレースの厳しさは誰もが承知している。熟成されたマシンでさえ、表彰台の一角を獲得することは難しい。その意味で、我がロータスヨーロッパは決して有利とはいえなかった。というのは、「ストリート仕様のままで、どこまでレースに通用するか」といった一種のチャレンジを試みていたからである。
 テクニカルショップHAPPYの社長である斉藤氏のその考えには、僕としても共感していた。天国のコーリン・チャップマンも、きっと同じ意見を口にすると思う。手頃なスポーツカーをユーザーに提供するため世に送り出されたヨーロッパは、やはりストリートに生きるスーパースポーツでなければ意味がない。その表現が間違いではない実力も、ヨーロッパは備えている。
 レースを通じて多くのロータスフリークにそうした魅力を伝えたるため、あえてストリート仕様によって参戦することは僕自身も、またチームクルー達も意欲を燃やしていたと言っていい。「古くさいスポーツカー」などと、もう言わせないためにも・・・、である。
image  おそらく、その願いは叶ったといっていいだろう。デビュー戦に選んだ96.6月30日、SCCJ主催によるレースでは、シェブロンやロータスエラン26Rなどの歴代コンペティションモデルが顔を揃えていたが、ヨーロッパは速さを充分にアピールした。確かにレース内容をみれば、シェブロンとロータスエラン26Rがトップ争いを演じている後方をヨーロッパが追撃する展開だったが、サーキットを駆け抜けるラップタイムは接近したバトルを行っていた。
 チェッカーフラッグを受けたときの順位は、2位。トップグループを走るロータスエラン26Rがマシントラブルによりリタイアしたことで、デビュー戦ながら表彰台 の一角を獲得する結果となった。
 セカンドステージは、97.2月11日JCCA主催によるヒストリックカーフェスティバル・Fクラスへの参戦。参加車両には大改造されたフェアレディやスカイライン、S8、パブリカという過去のTSレースを彷彿とさせる国産スポーツカーに加え、ロータスエラン26R、ポルシェといった外国勢が混走する見所のあるレースだった。
 この時点からだろうか我がロータスの熟成は進み、課題だったフットストッパーやブレーキ性能に対策が施され、ストリート仕様のサスペンションも減衰力、スタビライザーの調整により前後の性能バランスをさらに追求した。ペダル操作が行いやすくなったことではコーナーでの微妙なトラクションコントロールが難しくなくなり、ブレーキ面では高温域に強いパッドの採用により制動力の曖昧なタッチも解消された。サスペンション・セッティングにおいても、とくに高速コーナーでのリア接地性の向上が確かめられ立ち上がりで積極的にアクセルが踏めるようになった。
 コントロール性を全体的に高めるそうした進化は、実際のレースにおいて大きな武器となったことは言うまでもないだろう。予選では、クルマが身体の一部になったような「人馬一体感」が得られ、一段と積極的なドライビングが行えた。その結果、2番手に余裕を持ったタイム差を与え、ポールポジションを獲得できた。
 しかし、決勝では不覚にもダブルチェッカーによる失格。ただチェッカーを見落とすはずがないためオフィシャルに抗議を申し立てたがそれも却下され、あえなくシリーズポイントを落とすことになった。
 とはいえ、決勝レースでは、いつになくマシンとの呼吸が取れていることを感じていた。そのため、スタートにおいて2番グリッドから飛び出したフェアレディにトップを奪われたときも焦りはしなかった。その週の最終コーナーではすでに抜き返してホームストレートをトップで駆け抜けられたほど、この日はマシンに乗れていた。その後は、スタート直後の1コーナーでスピンをしたエラン26Rが最後尾から追い上げ2番手に浮上してきたが、ストレートでバックミラーに姿が移るほどの接近はなく、結果的に3位とは約30秒の大きなリードを保つ独走体制を築いたのである。この時のベストタイムは1分02秒023であった。
 そういえば、ヨーロッパの特性に慣れ思うがままに操れる実感を持てたのも確かこの時期。コーナーにおいてバトルすることに抵抗はなかった。マシンの熟成にも確かな信頼感が抱け、どこからでも先行する車両を抜きにかかれるだけの条件も揃っていた。
 そこで迎えた3度目のレース、'97年5月25日オーシャンカップでは、まさに負ける気がしなかった。決勝は惜しくも2番グリッドからのスタートとなったが、前を先行する車両にバトルを仕掛けるタイミングをつねに計っていたのは事実。事前のテストでは1分2秒台前半のラップタイムを刻んでいただけに、マシンの仕上がりにも自信があった。
 しかし前を行く先行車両は、筋金入りのコンペティション・マシンであるシェブロンB8。ヨーロッパが積むロータスツインカムとはエンジン排気量が違えば、絞り出すパワーも有利でありストレートでバトルを仕掛けることは許されない。まして幅広いハイグリップタイヤを武器に、コーナーの限界スピードにもアドバンテージを持っていた。
 残されたチャンスは、コーナーへの進入でインサイドに飛び込むこと。そのチャンスは最終コーナーで訪れた。車速が思うように伸びないシェブロンにバックストレートで並び、最終コーナーの入り口のインサイドを奪った。しかしシェブロンのコーナー限界はハンパじゃない、逆に外側のラインから徐々に抜きにかかってきた。ヨーロッパはそのとき、すでにグリップ限界。タイヤには僅かな滑りが感じつつ、微妙なコントロールを必要とした。
 しかしお互い一歩も譲ることはなく、コーナー出口までサイド・バイ・サイドの激しいバトルが続き、そして・・・。
 結果はクラッシュに至ってしまったが、僕自身は満足の行くレースだった。リタイアという成績に悔いは残ったものの、ヨーロッパとの間で最も呼吸が取れていた。もっとも、それはレースにおいて重要な要素。レースでは速いだけのマシンは勝利が得られない。バトルに安心して挑めるコントロール性も重要なのである。デビュー戦では追従を許さなかったシェブロンにバトルを挑めたことは、それを裏付ける事実ではなかろうか。
 まさしくスーパー・ストリートと表現しても遜色ない。過去に「古くさい」と口を滑らせた人は、おそらく後悔していることだろう。

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